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衆議院 本会議

2023年12月07日(木)

0h21m

【公式サイト】

https://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=54804

【発言者】

額賀福志郎(衆議院議長)

山口俊一(自由民主党・無所属の会)

21:30

(会議を開きます)これより会議を開きます。去る11月10日、請求されました前議長細田秀夫君に対し、聴議を表するため、山口俊一君から発言を求められております。これを許します。

22:04

山口俊一君。

22:10

(山口さんの発言は聞き取れません)

22:37

23年にわたり、本院議員を務められた前議長細田博之先生は、去る11月10日、79歳の生涯を閉じられました。

22:53

10月19日、翌日から始まるこの臨時国会を前に、健康不安から、香江田副議長に議長辞任願いを提出をされた場に、私も同席をしておりました。

23:11

疲れの様子ではありましたが、よもや病状が悪化し、ひと月も経ないうちに、不法に接することになるとは、ついほども思いませんでした。

23:27

自宅だからと、細田議長の発案で撮影をした、香江田副議長と共に笑顔で写る写真には、回復を疑わない前向きな様子を感じておることができ、御本人も全く想像しない展開だったのではないかと思っております。

23:49

御家族をはじめ、関係者の皆様らの深い悲しみに思いを致すと、御心中いかがかりか、と察するに余りがあります。

24:01

私はここに皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、2年間議員運営委員長として議長をお支えをしてきた者として、また初当選同期の長年にわたる友人として、保育士前議長を忍び、通信で哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。

24:27

保育士前議長は、昭和19年4月5日、後に防衛庁長官や運輸大臣などを歴任されることになる鉄道官僚の父・吉蔵先生と母・静子様の御長男としてお生まれになりました。

24:47

その時にピアノを習われるなど、教育にも熱心な御家庭に育ち、進学した当時の東京教育大学附属小間場中学校・高等学校では、勉学のみならず陸上部や科学部において活躍をされたと聞いております。

25:07

その後先生は、昭和42年に東京大学工学部を卒業され、通商産業省に入省されました。この年は高度経済成長期の終盤にあたると同時に、不思議にも後に取り組むことになる「過疎」という言葉が公に使用されるようになった年でした。

25:34

東京工学部の通商産業省では、同僚や友人にも恵まれ、産業構造の変化や二度のオイルショックを経験する中で、さまざまな政策についても見識を深められました。

25:48

また、2年間にわたり、石油工団事務所長としてワシントンに勤務をされた際には、アメリカの国会議員、政府公館、経済人との交流だけではなく、全米中を自らドライブをして旅行をしたり、

26:06

新領旗の新中軍によって撮影をされたカラー写真の発掘に取り組まれたりするなど、行事にわたり充実した時間を過ごされたと伺っております。

26:19

そして、19年の公務員生活を経た昭和61年、物価対策課長を最後に通商産業省を退官し、知事・木津雄先生の秘書を皮切りに政治の道に進まれました。

26:38

中選挙区制の当時、東西230キロに及ぶ県全域を選挙区とする島根県において、3年余りの間、秘書として過疎と人口減少問題に悩んでいる県内をくまなく回られた先生は、

26:57

平成2年2月の第39回衆議院議員総選挙に島根県全県区より立候補され、見事に当選を果たされたのであります。

27:11

木津先生は、人事を尽くして天命を待つ、を在有の命としておられましたが、その政治家人生では、この言葉の通り、一つ一つの与えられた職務に全力で取り組み、成果を挙げてこられました。

27:29

国会においては、運輸委員会、環境委員会、予算委員会、議員運営委員会、倫理選挙、特別委員会を中心に、多くの委員会で委員、理事を歴任され、卓越した見識と優れた行動力をお示しになりました。

27:47

この間、党内では、交通部会長や外交部会長を務め、平成11年の外交部会長時代には、古総部紛争による難民支援のための与党現地調査団を率いて、混乱が続くアルバニアやマケドニアを訪問されました。

28:09

議長就任後の海外要人との面会でも、この経験を度々紹介をされていたと伺っており、後の議員外交の礎となったのではないでしょうか。

28:23

その後も、党におきましては、国会対策委員長、管理長、総務会長という数々の要職を歴任されるとともに、党内屈指の政策図として、その手腕を遺憾なく発揮をされました。

28:41

この議員外交は、ライフワークとして、過疎や地域おこしに関する政策に携わり、近年では、特定地域づくり事業推進法の成立、森林環境税及び森林環境常用税の創設に尽力をされました。

29:00

これでも、特定地域づくり事業推進法は、地方の人口のさらなる休減を抑止し、豊かな地方づくり・人づくりを推進しようとするもので、超党派の成立に全力で臨まれました。

29:17

この議員外交は、特定地域づくりの政策を実現するために、特定地域づくりの政策を実現するために、特定地域づくりの政策を実現するために、特定地域づくりの政策を実現するために、

29:34

投入する市町村の数は、なお増え続けております。このほか、政策面では、党内外で選挙博士として知られ、数々の選挙制度改革において、実務者として、制度改革の実現に大きく貢献を続けられると、

29:55

全国の選挙区次長に声通をして、その白色ぶりには一度舌をまいたものであります。

30:03

初当選から2年後の平成4年には、議員立法の提出者の一員として答弁に立つなど、倒角を表され、現在の小選挙区比例代表平立制を導入する特別委員会の審査に当たっては、

30:22

政党の扱いをどうしていくのか、などと鋭く指摘をし、少数会派を含む様々な党派の活動によって、国会が運営されていることを意識して活動を続けてこられました。

30:38

内閣では、経済企画政務次官、通商産業総括政務次官を歴任した後、平成14年9月、第一次小泉改造内閣において、沖縄及び北方対策担当大臣と川崎裕司政策担当大臣として初入閣を果たされ、

31:01

平成15年6月には、初代の個人情報保護担当大臣にも就任をされました。

31:10

特に、沖縄科学技術大学院大学、OISTの設置に当たりましては、平成15年4月に設置予定地として女村を選定され、大臣退任後もその経験を生かし、議員連盟会長などの立場から、研究活動の充実に向けた支援を続けられておられました。

31:35

近年のOISTの研究活動の成果は、皆様方もよく知るところであり、その先見の銘を改めて感じるところであります。

31:47

第2次小泉内閣及び第2次小泉改造内閣では、内閣官房副長官、次いで内閣官房長官として日々の記者会見に臨まれるとともに、国会との調整に奔走され、表裏の裏表のない実直なお人柄と、ひょひょうとされる様子に親しみを覚える方は、与野党を超えて多かったのであります。

32:16

これらのご経験の後、前回の総選挙において11回目の当選を果たされた令和3年11月、優れた人格と質権を変われ、先生は第78代の衆議院議長に就任をされました。

32:36

就任に際して、この議場で述べられましたとおり、議員の公正円満な運営に全力を傾注をされるとともに、与野党から推挙していただいたことを踏まえ、常に忠実であろうと振る舞っていらっしゃったことは、最も身近にいた議員運営委員長として常に感じていたところであります。

33:02

ここでも人事を尽くすという言葉を実践されておられた、本須田先生でありました。

33:10

加枝副議長とともにお支えをしたこの2年間、数多くの案件について、相談をさせていただきました。 与野党が納得をしていればお任せをするという御様子がほとんどでありましたが、その中で2回だけ議長が主導された案件がありました。

33:34

本日は昨年行われたIPUのジェンダー調査であります。調査を行ってもらいたいと、面会に訪れた野党の先生に対し、前向きな反応を示されるとともに、私に対して、

33:52

この男女共同参画担当大臣の経験や、自民党における女性議員の増加や活躍の取り組みを比例記をされつつ、検討を行うように指示を出されました。

34:06

その後、事務局のサポートも得て、充実をした調査結果が取りまとめられたことは、皆様御承知のとおりでありますが、多くの同僚議員がどのような調査が行われるのか注目をする中、保佐議長のリーダーシップによって実現をした印象に残る出来事でありました。

34:31

もう一つは、質問通告の在り方についてであります。保佐議長は、御自身が霞ヶ関に身を置いていた経験から、立法府と行政府の関係にも長年関心を寄せておられました。

34:48

これまで質問通告の在り方等について、政党間での申し合わせは行われておりましたが、先の常会において、議員運営委員会理事会としては初めての申し合わせを行いました。これについても、保佐議長が私に対して何かできないかと相談を持ちかけられたことが、端緒となったものでありました。

35:16

その後、与野党各位の協力を得て取りまとめられたものでありますが、前例のない形での人事院総裁からの議運の理事会での説明聴取など、保佐議長に背中を押されたからこそ取り組めたものだったと思っております。

35:37

議長退任前の今年の9月、北海道厚決勝で開催をされた衆議院議長が主催者である第42回全国豊かな海づくり大会は、天皇公公両陛下をお迎えをして、無事に成功を収められました。

35:58

既にご病気の関係で服用すべき薬があったにもかかわらず、その副反応により出席できなくなる事態を避けるために、周囲の心配をかえりみ、ご自身の判断で薬の服用を減らすなど、まさにご自身の体を欺くことに臨まれたのであります。

36:23

今にして思えば、議長としての最後の勤めとの強い思いがあったのかもしれません。そして、その成功を見届けた後、臨時国会が迫る中で、これ以上は迷惑をかけられない議長職を辞するという苦渋の決断をされたのであります。

36:46

議長を任期途中で辞するのは大変なことであり、急調寸断の思いであったことでありましょう。

36:57

議長退任までの1年11ヶ月、外国の議長との面会は延べ26名、大統領や国王といった元首は6名、首相や閣僚は12名など、歴代の議長と比べても遜色のないペースで海外の要人との面会を重ねられました。

37:21

その際にも緻密な歴史観に裏付けをされた意見に誰もが耳を傾けたことと存じます。

37:30

これまでのご経験の集大成の一つとして、9月のG7会員議長会議の開催に向け、周到な準備を重ねられておられた中で、欠席のやむなきに至ったことは、大量お勤めになられた加枝副議長に感謝をしつつも痛恨の極みであったでしょう。

37:56

このように、劇もこなす一方、趣味として知られるピアノ演奏は長らくの中断を経て再開をされておられたと聞きました。

38:09

以前、東本部の大ホールでも、ベートーベンやショパンの曲をなめらかに演奏され、その腕前は世界的なピアニストであった中村広越から、感受性が強く、音楽的な演奏でびっくりするほどロマンティックとの高い評価を受けておられました。

38:33

そのことも、忙しい中でも練習に取り組むことの後押しとなったに違いありません。

38:41

退任の記者会見の最後、会見時間の延長を求める怒号や最後の会見を求める声を浴びながらも、先生は「会見ではなく会話をしましょう」と体調の優れない中、ひょうひょうとお答えておられました。

39:04

ただまな報道に対しても、事実ではないと、ご自身が考えることについて、それを証明することは本当に難しい、そうお悩みのようでありました。

39:18

会話しましょうというのは、ホスタリウムの最大限の声援の表れだったのかなと思っておりますし、特段隠すことなく素直に話されていたと感じたのは私だけではないと思います。

39:35

議長として人事を尽くしてこられたからこその振る舞いであったと思いますし、このような先生の姿勢についての理解が広がることを願ってやりません。こうして議場で追悼の言葉を述べておりますと、懐かしさにふと昔のことも思い出されます。

39:58

数々の要職を歴任をして、3県の長まで勤められたホスタ先生でありますが、当選同期同士、若狩氏時代には共にやんちゃもんやりましたね。

40:13

ホスタ先生が交通部会長、私が通信部会長の時に、私がそぞのかす形ではありましたが、橋本内閣の中央省庁裁変の折、総務省を自治省、郵政省、総務省の合併とするのではなくて、運輸省と郵政省を合併をさせよう、2人で目論びました。

40:42

昔の低信賞の復活であります。しかし結局、党の総務会で、当時加藤光一幹事長、また山崎拓政務調査会長から、みんなの前で手ひどく怒鳴りつけられ、叱られ、2人の計画が幻と消えたことを、今になって楽しく思い出されます。

41:08

先生は私にとって、良き友であり、同志でもあり、そして、選挙や議会制度に関する、卓越した見識を有する先輩でもありました。私は議員運営委員長として、保田議長にお使いをし、立法府の長としてのあなたをお支えをすることができたことを、心から光栄に思います。

41:34

ここに保田博之先生の生前のご功績を称え、その人となりを忍びつつ、通信で御冥福をお祈りいたします。先生を今日まで支えておられました。

41:51

ご家族の皆様の共駐に深く思いを致すとともに、行使にわたって先生を支え続け、昨年2月に先立たれた最愛の両夫人のもとに旅立たれ、その魂の安らかならぬことを心から願って推討の言葉と致します。

43:01

本日はこれにて散会いたします。

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